第160回 ケーニー ~ゴミ拾いで悟る~

アルラの異物除去

 土曜日がやってくるたびにチベット医学生は気だるい雰囲気に襲われていた。なぜなら、メンツィカン製薬工場での労働奉仕の日だからである。仕事のほとんどは薬草の異物除去作業、もしくは高貴薬の包装作業など、製薬過程のなかでもっとも単純な作業が割り当てられる。こう否定的に記すとチベット医学生へのイメージが低下するかもしれないが、それでも、僕を含めてみんな使命感を抱き、5年間サボることなく仕事をまっとうしたことをまずは評価していただきたい。

 朝9時から夕方の5時まで、昼休憩1時間をはさみ、ひたすら薬草に向かい合ってゴミ(チベット語でケーニー)を探し続ける作業は修行と呼ぶにふさわしい。実際に山で薬草を採取してみれば分かるけれど、雑草や異物はどうしても混ざってしまうもの。そこで、異物除去の過程が重要になってくるのである。たとえばアルラについてはすでに述べたとおりで(第36話)、あまりの単調さにアルラが飛び交うことになる。たとえば紅花の異物除去、たとえばマヌ(キクイモの仲間)の皮むき。

マヌの皮むき

たとえばジャムデという実の種割り。これらは最も時間と労力を必要とする作業だからこそ医学生のマンパワーが期待される。山で薬草を採取し、製薬し、加持祈祷し、診察し、処方するという一連の医療の流れのなかで、もっとも大切な過程はと問われたなら「薬草の異物除去」と答えるのがチベット医学通というものだ。よく、僕が「メンツィカン学生は丁稚のような存在です(注)」と自虐的に語るのは、この単純労働に起因しているといってもいい。たしかにヒマラヤ薬草採集も大変で骨が折れるが、第一話「ツェルゴン」を読み返してもらえばわかるように、そこにはドラマがあり楽しさがある。それに比べて、異物除去作業はなんのドラマも生まれない超単調作業だからモチベーションは低下しやすい。

 そんな単調な作業を続けて4年目、僕はすばらしく日本人的な作戦を思いついた。それは四部医典の暗誦をしながら作業をする「二兎追い戦法」。白いマスクで口の動きを隠し、声を発しなければバレないだろう。ちなみに暗誦のいいところは、こうしてどんなときでも学習ができるところにある。ゴミを拾う手の動きは若干、遅くなるが問題はなさそうだ。ちなみに、労働奉仕をサボって試験勉強をし、他の学生を出し抜くのは御法度とされているし、当然、仕事をしながらの暗誦も御法度であるというか、そもそもそんな発想をすること自体、チベット人にはないだろう。

 ところが、3時間ほど作業が経過したところで同級生のゾンパに指摘された。「ねえ、オガワ。もしかしていま四部医典の暗誦をしているでしょ。体が揺れているわよ」。そうなのだ。暗誦をすると誰しもがメトロノームのように体が揺れてしまうのである。「い…いや、そんなわけないだろ」と狼狽する僕。後ろめたい気持ちはかくせない。やはり「二兎を追う者一兎を得ず」。たかが、ゴミ拾いとはいえ心を込めてやるべきだと、このとき深く反省したのであった。余談ではあるがこんなときチベットの諺では「ツァンパを食べながら笛を吹くな」という。

紅花の異物除去

 ゴミ拾いといえばチベット社会に語り継がれている有名な説話がある。かつてお釈迦様の弟子にたいそう出来の悪いものがいた。あまりにも愚かで自分の名前すらも忘れてしまうほどだったという。そこでお釈迦様は箒を与えて、ひたすら掃除をすることを命じた。彼は10年、20年と一心不乱に掃除をするうちに、なんと悟りの境地に達したという。チベット人はこの説話が大好きで、ダライラマ法王も説法の時によく用いられている。チベット人同級生たちが愚痴をこぼしつつも黙々とゴミ拾いを続ける姿勢の背景には、こうしたチベット仏教の教えがあるといえる。

 ただ、こうして薬と仏教の関連を語っている僕自身はけっして綺麗好きではなく(第100話)、現在、薬草の異物除去はもちろん頑張っているが家の片付けは妻に叱られてばかりである。悟りの境地にまだまだ遠いようだ。

注1
拙著『僕は日本でたったひとりのチベット医になった』のP188「理不尽な社会」で言及しています。


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