第269話 チンパ ~尿診~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

ダチュ先生による尿診ダチュ先生による尿診

特に年配者は朝一番の尿(チンパ)を新聞紙で包んだペットボトルに入れて、午前の早い時間にメンツィカンに来院する。アムチ(医師)はまず問診をし、次にペットボトルのまま色と浮遊物を観察する。ときにボトルを降ってから飲み口に耳を当て、泡立ちが消える音を分析する。隣のトイレに移動すると尿を白い容器に注ぎ、枝分かれした細い枝で混ぜて泡立ちを観察する。尿を便器に捨て、手を洗った後に診察室に戻って患者に説明をする。ここまでがおおよその尿診断の流れであり、研修医だった僕は指導医のもとで一日に2、3件のペースで尿診を学ぶことができた。

ある日、真っ赤な尿を持参した尼僧が来院した。尿を分析するまでもなく明らかに腎臓病もしくは肝臓病だとわかり、すぐに大きな病院での精密検査を勧めたことがあった。チベットやインドなど健康診断が行き届かない地域ならば、こうして腎臓や肝臓の極端に進行した病を容易に発見でき、尿診の有意性が明らかになる(注1)。つまり尿診は大きな異常の有無をチェックする大切な役割を果たしており、たとえるとメンツィカンは日本社会における町医者的な役割を担っている(注2)。また、病の根本が熱性か寒性かを(脈診に比べて)確認しやすく、治療薬の選択に際して大切な役割を担っている(注3)

尿診尿診

八世紀に編纂された四部医典には「尿の色、湯気、尿膜を診るために早朝、容器に光が差し込むときに診察しなさい」とあり(注4)、朝一番の尿、しかも放尿の前半は捨てて後半を容器に溜めて温もりが残っている時間帯ならば正確な診断をすることができる。従って朝一番で来院するのである。さらに「診察の前夜からお茶、乳清、酒は尿の色に影響するので多量に飲むのは控えなさい。口渇、房事、不眠、過労は避けなさい」とあり、患者の心構えが大切とされている。ときには酒臭い尿やビタミン剤服用後の蛍光色をした尿を持参する不届きな患者もいたが、一般的にチベット人には診察の準備が慣習として受けつがれており、それは尿診の正確さにつながっている。つまり尿診はアムチと患者との共同作業によってはじめて成り立つといえる。

四部医典で尿診が登場するのはメンツィ-カン4年生のとき。この時期から熱心な医学生たちは毎朝、自分の尿を用いて診断の訓練をはじめる。尿に真剣に向かいあう医学生たちと、朝もやのなか粗末な男性寮の手すりの上に尿の器がズラッと並んでいる光景が僕は大好きだった。そんな人間味あふれるチベット社会において尿診は前述のように等身大の評価を受けている。しかし、幸か不幸か海外においては『チベット医学』を冠した書籍を通して神秘的な尿診伝説が広まっているようだ。

尿診の屋外講義 メンツィカン 2005年 尿診の屋外講義 メンツィカン(2005年)

「尿だけで現代医学が見抜けない病を発見できる」と信じるスイス人から尿が10日間かけて空輸されてきたことがあったが、もちろん診断は不可能である。鬼神(霊障)の尿診断が注目されるのも外国ならではである。亀の甲羅に患者の尿を溜め、そこを九つのマスにわけ、出現する模様によって患者に憑いている鬼神を判断するという特殊な尿診である。確かに四部医典には克明に記されているが、あくまで1000年前の聖なる教えであると現代のアムチたちは認識しており実践はしない。それはちょうど日本人が平安時代の占い、たとえば陰陽師・安部晴明の伝記に触れるような神聖さと現実感である。ただしチベット寺院など厳粛な場において、密教まで修めた高僧が行うならば神秘的な尿診はあり得るし、そうあるべきという民衆の賢明な理解力と歴史の連続性がチベット社会には息づいている。その意味ではチベット民衆のまなざしのなかにおいてのみ、“チベット”の冠詞に相応しい神秘的な尿診が存在しうる。

尿が流れる音に耳を傾ける絵解き図 尿が流れる音に耳を傾ける絵解き図

アムチは尿を指で舐めて糖尿病を診断するという噂もあるが、実践しているアムチに出会ったことはない。しかし、それは尿を舐めるほどにアムチは患者に寄り添うという象徴的な行為として受け取ってほしい。尿診に際して(少なくともメンツィカンの)アムチはマスクも手袋も着用しない。たとえ舐めなくとも患者の尿を大切に取り扱うことでアムチへの信頼が生まれている(注5)。それは尿診という行為が内包するもっとも基礎的な効果効能ではないかと僕は考えている。

注1
日本のように健康診断が普及していれば極端な症例が尿に現れるケースは少なく、また、精密な検査機器の診断を気軽に受けられる日本では尿診の有意性は現れにくい。また、日本、欧米のように多様な食文化が背景にあると尿診はけっこう難しい。

注2
日本のように現代医学と伝統医学の対立構造は存在せず、メンツィカンと現代医学の病院は積極的に連携し、お互いの役割を果たしている。

注3
尿の色が透明で寒性ならばザクロ(第37話)や胡椒を主体とした温性の薬を、尿の色が黄色く匂いが強い熱性ならば方解石(第19話)や白檀を主体とした寒性の薬を処方する。

注4
現代医学においても視覚によって簡単な尿診断が行われている。たとえば尿の泡立ちによって尿タンパクの有無がわかるとされる。

注5
四部医典には「患者の膿と血を、犬と豚のように親しみを抱きなさい」とある。マスクと手袋をしないのはメンツィカンに受けつがれている伝統的な姿勢であって義務ではない。したがってマスク、手袋をしているアムチはたまにいる。

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