第268話ラクケル ~国家資格とは~  チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

資格ってなんだろう? 近代国家的な中央集権力を有しないチベット社会で10年暮らしているうちに、そんな疑問が浮かんできた。たとえばチベット亡命社会では恋人と夫婦の境界は曖昧で夫婦制度は厳しく管理されていない。日本では当たり前と思っていた概念が一つ崩れると連鎖的に思考は柔軟になってくる。たとえばどうして日本では医師、薬剤師は国家資格であり、いっぽうで写真家、落語家、文筆家、プロ野球、大相撲は国家資格ではないのだろうか。今回は医師の資格について考えてみたい。

メンツィカン研修医オガワ(2008年)

チベットの医師(アムチ)はもともと国家資格とは性質が異なり、極論すれば誰でも名乗ることができた。チベット人の多くが「親戚に何人かアムチがいるよ」と答えるのはそのためである。特にラダック地方のアムチはいまも昔ながらの信頼関係による緩やかな認定制度を保ち続けている(第181話)。ちなみにチベット語で資格はラク(手)ケル(持つ)という。そして八世紀に編纂された四部医典には医師の条件こそ記されているがラクケルという表現は用いられていない。

では、そもそも医師がどうして国家資格、つまり勝手に医師を名乗ると刑罰を受ける制度が生まれたのだろうか。その歴史を調べると18世紀後半のプロシア(ドイツ)にヒントを見つけることができる。当時、医師の資格制度化は最重要課題であった。なぜなら健康な国民を育て、強力な軍隊を作り、戦傷者を治療し、国民の生死を国が把握・管理することが国の力に直結したからである。いっぽう日本では大宝律令(701年)によって薬師が国家資格になった一時代はあったけれど、基本的に江戸時代までは誰でも医師(当時は薬師と呼ばれた。第228話)になれた。各藩に医師の育成システムはあったが、独占的、かつ排他的ではなかった。また藩を越えて日本全土で統一された医師の教育システムはなかった。そして明治維新によって近代国家の概念が生まれ、プロシアに習って1873年に医師法が誕生したことで、はじめて医師、ならびに薬剤師は国家資格になったのである。そして145年の時を経た現代日本では、医師の国家資格が常識になっている。

メンツィカン、ワンモ先生
メンツィカン、ダチュ先生

あらためてチベットに眼を向けたい。チベット社会は意図的に医学の国家資格を否定したわけではない。振り返れば1916年にダライラマ13世は新たにメンツィカンを創設し、中央集権医学システムを構築しようとしたが成功したとはいいがたい(第195話)。亡命後は2011年にチベット医学中央連盟を結成し、インド国家のもとでアムチを資格制度化しようと試みているが(第69話)、警察的な排他力がないという内部批判が生じている。具体的にはロシアにおいて「自称・アムチ」「自称・チベット医学」が跋扈し、チベット薬、またはチベット医学的施術が高額で処方されていることが問題になっている。

西寧のアムチ

さて、ここからは僕の見解である。民衆側に「本当の医師を選び取る力」があるかどうかではないだろうか。たとえばインドのテレビにはSUMOがバラエティー的に頻繁に登場するが、僕は一目で本当のお相撲さんではないと見抜けたし、日本人ならばその佇まいだけで真偽を判別できるであろう。その意味では日本人の“まなざし”によって大相撲は成立しているといえる。そこには資格制度なんていらない。同じようにチベット社会におけるアムチへのまなざしは成熟しており、自称・アムチはすぐに見抜かれてしまう。効果効能を派手に謳う怪しげな治療には誰も目を向けない。医学生たちの厳しい学びが社会に開けているので、その成長過程が民衆と共有されている。海外においてありがちな神秘性は存在せず、アムチに対する当事者意識が極めて高くなっている。確かにチベットは近代的概念との相性が悪かったが、だからこそ民衆と医師との相互関係によって「医学」を成立せざるをえない状況が保たれたとはいえないだろうか。

誤解しないでほしいのだが僕は医師の国家資格に対して否定的な立場ではない。ただ、国家資格が生まれてきた背景を知って俯瞰的な意識を持つこと。医師、薬剤師という立場は国家の後ろ盾とともに、民衆からの「まなざし」によって成立する側面があること。それが19世紀から200年近く続いた近代国家主義を越えて、やや硬直化しつつ(つまり民衆との相互性が失われつつ)ある現代医学に対して提案することができる「チベット医学的な」思考ではないかと僕は考えている。だから僕は「アムチの資格を持つ」ではなく、最近は「チベット社会からアムチとして認められた」と意図的に語るようにしている。

参考
『医療と仏教』(サンガ出版Vol28 2017)の「チベット医学と仏教」(小川康)
『臨床医学の誕生』(ミシェル・フーコー みすず書房 2011)

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