第279話 リムネ~伝染病~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

コロナウイルスの感染拡大に伴い「チベット医学ではどのように対処しますか」と期待を込めて質問される機会が多い。そこで今回はチベットにおける伝染病の歴史について整理しておきたい。

八世紀に編纂された『四部医典』には伝染病にあたる症状に対して多くの分量が割かれている。ただし当時は病原菌が伝染するという事実がまだ解明されていなかったので「感染」「伝染」という言葉は使われていない(注1)。病が順を追うように悪化していくことからリム(順次)ネ(病)と名付けられた。なかでもチベットをもっとも悩ませたのは天然痘であった。チベット語ではドゥムネという。

天然痘のかさぶた 四部医典の絵解き図 天然痘のかさぶた 四部医典の絵解き図

18世紀初頭(1716~21年)にチベットへ入国したイタリア人宣教師デシデリ、並びに20世紀初頭に入国した青木文教によって天然痘による惨状が報告されている(注2)。なお1697年に編纂されたチベット医学の解説書には天然痘の治療法として「天然痘に罹った患者のかさぶたの粉末を内服せよ」と紹介されている。いわゆるワクチンの先駆けであり驚きに値するかもしれないが、これは11世紀ころから中国、欧州においても広く実践されていた人痘接種法である。しかし死亡例が多く賛否両論であった。また1918年から世界的に流行したスペイン風邪によっても大きな被害を受けている。1970年代にはマーモット(ネズミ科)を介したペストが流行し、いくつかの村が軍隊によって完全封鎖されて消滅していったという。また僕がメンツィカンに在籍していた2009年ころまではチベット亡命社会では結核患者がきわめて多く、メンツィカン(チベット医学暦法大学)では隣の現代医学の病院で処方される抗生物質の副作用を軽減するために連携して治療に当たっていた。こうして振り返ればもちろんというべきか、世界から隔絶されていた感のあるチベットにおいても古来より伝染病に苦しめられてきた歴史が浮かびあがってくる。そして、伝染病に立ち向かってきた全世界の医師たちと同じように、先人のチベット医たちも全身全霊で治療に当たり、そしてときに無力さに苛まれていたであろうと想像する。

メンツィカン入院病棟 メンツィカン入院病棟

人類が感染症に対して有効な対抗策を見出すことができたのは(1)1796年ジェンナー(イギリス)によるワクチンの発見。(2)1861年パスツール(フランス)によって微生物の働きが明らかになる。(ウイルスの発見は1892年)(3)1865年リスター(イギリス)によってその微生物は石炭酸によって消毒できることがわかった。(4)1928年抗生物質ペニシリンの発見(第244話)、ならびに1950年以降、医薬品の大量合成が可能になった。(5)また国家レベルで大量のデータを収集し疫学調査をすることが可能になった。いわゆるエビデンスである。おおよそこれら5つの事象が、結果的に(相対的に)近代医学、もしくは西洋医学と称されるものであり、それまでの前近代医学、もしくは東洋医学との決定的な差であるといえる(注3)

誤解しないでほしいのだが、それはチベット医学だけに限らず、20世紀以前の前近代医学、すなわち伝統医療や民間療法を卑下しているわけではない。ただ伝統医療は、広範囲の社会を対象とせざるをえない感染症を苦手とし克服できなかったという歴史的事実を確認しておきたいのである。なお第89話においてリムスンという感染症予防携帯薬を紹介しているが、この50%はニンニクで、その他に硫黄、菖蒲、没食子など匂いが強力なものばかりで構成されている。前回のSARSに続き今回もメンツィカンにおいて製薬されたが、ニンニクなど強い匂いで疫病を予防する風習は、かつての日本をはじめとして世界各地で見られていた風習であることを補足しておきたい。

ラダックの風景 ラダックの風景

ときに近代医学に対抗する存在としてチベット医学が、チベットでの現状とは無関係に持ちあげられるために(第278話)、難病に対して過度な期待を受けることがある。だからこそ、コロナウイルスに限らず癌や糖尿病など難病に関しても、まずは歴史を冷静に振り返り、そのうえで『四部医典』の内容を検証することで、コロナウイルスなど未知の感染症に有効な治療法のヒントが見いだせるかもしれないと思っている(注4)。いまのところは「長寿を獲得するには、清潔で人里離れた場所で暮らしなさい(釈義相伝第23章)」が唯一、現代に通じる治療法である。いずれにせよ、いま過酷な現場で治療に当たっている世界各国の医師、看護師など医療スタッフ、ならびに治療薬の開発を急いでいる研究スタッフの方々に敬意を表しつつ、コロナウイルスの一刻も早い終息を心より願うばかりである。

四部医典 四部医典

注1
現在の病名に対応させると、インフルエンザ、肝炎、天然痘、帯状疱疹、水疱瘡、ジフテリア、猩紅熱、赤痢、感冒、について記されている。また「汗の穴から侵入してくる(秘訣相伝第23章)」という記述があることから、何かが侵入してくるという概念があったことがわかる。

注2
「最も猖獗(しょうけつ)を極める流行病は天然痘で、かつて一時に数千の生霊を奪ったことがある。」 『秘密の国 西蔵遊記』(青木文教 中公文庫 1990 P264)

注3
西洋医学、近代医学、現代医学、これらの用語はおおよそ同一の事象を指しているが、どれも正式に定義が定められているわけではなく誰かが名付けたわけでもない。漠然と用いられている俗語である。

注4
たとえば、2015年にノーベル生理学・医学賞の対象となった抗マラリア薬は、西暦300年ころに著された中国の医学文献にヒントを得ていた。

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