第287話 ポゥ ~チベット~チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

日本におけるチベットのイメージは1904年に出版された河口慧海(1901~02、1913~15年チベットに滞在 第109話)の『チベット旅行記』によって形成されたといえる(注1)。慧海が出版した当時、具体的には日露戦争がはじまった年、日本は西洋をモデルとした近代化に突き進んでいた時代背景がある。その対極のイメージとしてチベットの存在が必要以上に注目を浴びたのではと僕は推察している。これによって「秘境の」「辺鄙な」という代名詞として定着したことを考えると慧海の責任は重い。たとえば岩手県や飛騨地方はかつて「日本のチベット」と称されていた。1960年代の高度経済成長期にもチベットはその対極のイメージとしてさかんに取り上げられ、誰一人としてチベット人に接していないにもかかわらず、良かれ悪しかれチベットの名前は広く知れ渡った。1995年ころ僕が働いていた農場一帯(長野県旧望月町長者原)は「長野のチベット」と呼ばれていて当時は良縁を感じたものだった。ところがチベット社会で暮らすうちに(1999~2009年)日本特有のこの表現が無邪気に用いられていることに不快感を覚えてきた(注2)。言葉の背後に「未開な」というやや侮蔑的なイメージを感じとってきたからである。

1993年以降はNHKスペシャル「チベットの死者の書」に端を発するチベットブームの影響でイメージは「神秘」へと転じたけれど、未開と神秘は表裏一体として生じるものであり、どちらにしてもそのイメージにはどこか陰があり、そして抽象的である。一つの単語で抽象化されると世間で周知されやすくなる一方、その言葉の向こうで暮らす人々の温もりが感じられなくなる。その結果、ときに乱暴に、または無責任に扱われがちになる。たとえばロシアンルーレットという単語はロシアに対して冷酷なイメージをわれわれに想起させてしまうが、そもそもロシアとの関係は曖昧であり、ロシア人にとってはいい迷惑であろう。最近は在日チベット人が増加し、ようやくチベット人自身による映画や論文や書籍が増えてはいるが、それまではチベット人不在のまま日本人によって一方的にイメージが形成されてきた感は否めない。したがって「チベット○○」もしくは「チベッタン○○」と冠するものの多くはチベットに因はあるにせよ変容してしまったものが多く、チベットの風景や友人たちの顔はそこに浮かんでこない。僕が「チベット医学」という呼称に以前から抵抗を感じている理由の一つがここにある(第278話)。

メンツィカンの同級生たち

メンツィカンの同級生たち

ちなみにチベット語でチベットのことを「ポゥ」という。発音はプーとブーに近いポゥであり、単音節ゆえに外国人にとって正確に発音するのは難しい。ポゥの語源には諸説あるが「ボット(能力がある)」説を僕は支持したい(注3)。ポゥという素朴な音感には神秘や秘境などのイメージが付着していなくて僕は好きだ。ならば「チベット医学」ではなく「ポゥ医学」と名乗ってはどうかと考えたが、やはり発音が難しいのが欠点だ。

そういえば最近「チベット高気圧」という単語を天気予報でよく耳にするようになった(注4)。こちらはやはり抽象的ではあるが無色透明なイメージが膨らむので個人的に気にいっている。ペンパ、ジグメ、ニマ、タシ、ペマ……。メンツィカン(チベット医学暦法大学)の友人たちの底抜けに明るい笑顔が高気圧のイメージと重なってくる。

在日ポゥパ(チベット人)の人口が増え、気軽にチベット旅行ができる新しい時代だからこそ、20世紀における「チベット」の用い方を振り返り、これからはチベットに関わる僕たち日本人の発信、そしてボゥパ一人一人の笑顔でチベットのイメージが新しく塗り替わっていけばと願っている。

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注1
彼(慧海)の率直な語り口と独自の観察が面白く、大きな話題を呼んだ。日本人のチベット観は、慧海のこの本に長く影響され、英訳もされて世界のチベット学にも広く貢献することになった。
『世界から絶賛される日本人』(黄文雄 徳間書店 2011 P155)

注2
ヨーロッパにおいて「チベット」は主に「世界の屋根」というイメージで用いられることが多い。

注3
『チベット 下』(山口瑞鳳 東京大学出版会 1988)

注4
チベット高気圧(チベットこうきあつ)とは、春から夏にかけての暖候期前半に、チベット高原を中心としてアジアからアフリカにかけての広範囲を覆う、対流圏上層の高気圧である。(Wikipedia)

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