第299話 リ・ツェ ~山頂~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

梅里雪山(チベット名カワカブ)

梅里雪山(チベット名カワカブ)

ブータン国が2006年に6000m以上の高山への登山禁止を発表したことに象徴されるようにブータンを含めたチベット文化圏には山頂(チベット語でリ・ツェ)を極めるという文化はもともと存在しない。ましてやチベット民衆から崇められている聖山への登山はもってのほか、あり得ないことである。かつて雲南省の聖山で、未踏嶺の梅里雪山(チベット名カワカブ)に日本人登山チームがアタックしようとしたところ地元のチベット族から激しい非難が起こった。チベット人たちにとって山々は麓から崇めるか、もしくは周囲を巡礼することによる崇拝の対象であって、けっして征服するものではないからである(注1)。チベット族のシェルパたちは仕事として山に登り続けているが、最後の登頂へのアタックの前には、雇用主の登山家たちがどんなに急かしても祈りの儀式を欠かすことはないという。メンツィカン(チベット医学暦学大学2002~09年在籍)のヒマラヤ薬草実習(第1話)では、そこに貴重な薬草が生えているならともかく、同級生の誰も山頂への興味は示さなかったことが思い出される。

1945年当時の世界的登山家であったオーストリア人ハインリヒ・ハラーはラサで4年間暮らし、若きダライ・ラマ14世の家庭教師を務めたほどにチベット人から認められた実績がある。そのハラーをしても、登山に興味を示さないチベット人に対しては最後まで批判的であった(注2)。20世紀、ヨーロッパ各国はより高い山を征服し山頂に国旗を掲げることで国威を誇示してきた。戦後は山頂では飽き足らず宇宙開発で国威発揚しているのは流れとしては同じである。

上市町から望む剱岳(提供:澤井俊哉様) 上市町から望む剱岳(提供:澤井俊哉様)

古来より日本人にとっても山は神聖な場所で近づきがたい存在であり、修験道者やマタギらを除けば、日本人が山に登る習慣はなかった。注連縄が山の入り口の大木に張られているのは、彼岸と此岸を分け隔てる象徴だったからである。剱岳山頂に三角点を立てる物語『剱岳 点の記』(新田次郎)によると古来より「剣岳は登れない山、登ってはならない山」として崇め、怖れられてきたという。僕は立山や剱岳など屏風のように聳える北アルプス連峰を小さい頃から眺めながら育ってきた。そして富山県の小学校6年生の行事として霊峰・立山(3015m)に登り、山頂の雄山神社で神事をおこなったときのことはよく覚えている。とはいえ昔もいまも登山への興味は薄く、岳の幟(第236話)の祭事にともなって夫神山(1250m)へは一度登頂しているだけで、森のくすり塾の周囲の山々はいまだ登っていない。こう記すと、いかにも自分はチベット人的な人間として映るかもしれない。確かに登山には興味はなかった。

しかしメンツィカンの定期試験に関してはどうしても頂上、つまり一番を極めたくて必死に頑張っていたことを告白しておきたい。一時は25人中3番を獲得し、山頂まであと一歩というところまで迫ったけれど、いまにして思えば、あのときの自分は、チベット人の気持ちを顧みずに聖山に登ろうとする欧米、日本人とまったく同じであったことに気がつかされる。僕の激しい野心に得体のしれない恐怖を感じていたと、卒業後に同級生たちが教えてくれた。彼らは気の休まることがなかったであろう。たとえばイタリアのビザコンテストで日本人が一番を獲得するなど、「他国の文化で日本人が一番を獲得した」というニュースを耳にすると、あのときの自分の野心が甦り複雑な心境になってしまうのである。

ヒマラヤ薬草実習 2002年 ヒマラヤ薬草実習 2002年
トリウンド山へピクニック 2000年 トリウンド山へピクニック 2000年

ただし聖山でない山への登山は禁忌ではなく、チベット人は小高い山や丘へのピクニック(チベット語でリンカ)は大好きである。ダラムサラで暮らしていたときには、彼らと何度もトリウンド山(標高3000m)へピクニックに出かけたものだった。在日チベット人たちが富士山へ登った話も耳にする。ただし、もしも信仰上の理由で入域が制限されている山や聖地があるならば、チベット人たちはどの民族よりも真っ先に理解を示してくれることだろう(注3)

(注1)
「聖山とは、親のような存在だ。親の頭を踏みつけられたら、日本人だって怒るだろう。俺たちチベット人が、なぜ命を賭けてカワカブ(梅里雪山)を巡礼するかわかるか!」
梅里雪山 十七人の友を探して(小林尚礼 山と渓谷社 2006 P80)より

※上記『梅里雪山 十七人の友を探して』の中国語訳が出版されました。
詳細は → 京都大学学士山岳会のサイト

(注2)
「楽しみのために山に登ることを思いつくチベット人などは、ひとりとしていなかった。平均5600メートルの高さのある周辺の山に僧侶たちが定められた日に登ることはあったが、それはもっぱら宗教的な礼拝のためであった。」
『セブン・イヤーズ・イン・チベット チベットの七年』(ハインリヒ・ハラー 角川文庫ソフィア P298)より

「私はよく、毎年世界中からヒマラヤに向けて出発する多くの遠征隊について彼{ダライ・ラマ}に話した。白人たちがヒマラヤの高峰に夢中になることを彼は知ってはいたが、それがなぜかは理解できなかった。ダライ・ラマの心を奮い立たせてチベット人のヒマラヤ遠征隊を出させようと図っても、決してうまくは行かなかったであろう。ヒマラヤが神々の座だという信仰は、すべての仏教徒の胸にあまりにも深く根を下ろしている。山で起る遭難は、神々の世界への人間の侵入を怒って山の守護神が下す罰だと思われている。」
(同上 P453)

(注3)
たとえば奈良県大峯山は女人禁制である。

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