第313話 ナンバ ~仏教徒~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

授業をするジグメ 2008年

授業をするジグメ 2008年


 アルメニア人のインガにはじめて出会ったのは僕がメンツィカンを卒業してから3年後の2012年10月、チベット医学国際会議に参加するためにメンツィカンを訪れたときのことだった。職員が当時メンツィカン1年生だった彼女に「この人が、あの日本人アムチだよ」と僕を紹介したときの驚きと喜びようは、それはそれは自分が映画スターかと勘違いしたくなるほどに凄いものだった。入学以来なにかにつけてはオガワと比較されてきたらしい。当時教師だった親友ジグメにその点を尋ねると、「外国人学生だけでなくチベット人学生の尻を叩くためにオガワを理想化させてもらっているよ」と悪戯っぽい笑顔で教えてくれた。

振り返ればメンツィカンにおける外国人特別枠は2001年の僕の合格が契機となってはじまった(当時はヒマラヤ系民族枠で受験した)。2007年に韓国人が合格したけれど、彼女は幼少期からダラムサラのチベット子ども村で育っており、したがって僕は外国人とみなしていない。アメリカ人人類学者のケリーはきわめて優秀だったが寮生活にまったく馴染めず(第169話)、また優秀すぎるがゆえに学業に退屈したのか2年で退学している。そしてケリーと同時に合格したのがインガだった。アルメニアは旧ソ連という背景があり(第310話)、彼女は幼少期からチベット仏教が比較的身近にある環境で育っている。

メンツィカン学食 2007年

メンツィカン学食 2007年


 敬虔なチベット仏教徒である彼女は純粋な菜食生活(ヴィーガン)なために当初から女性寮での共同生活を諦めて、特例として隣のアパートから通学が認められていた。こうしてチベット人以上に仏教の信奉者である点は僕とまったくの正反対だった。小さい頃からの慣習ゆえに、誰もが自国の文化に対してはそうであるように、ときに形骸的な部分が見受けられ、たとえばチベット人の肉食偏重な点はまさにその象徴であろう。ときに形式的な読経もそうであろう。しかし彼女は外国人ゆえに、より原理的に、より純粋にチベット仏教を学び実践しようとしていた。そうした熱心な姿勢は不器用にすら映ることもあったが、彼女は(僕のように)試験の成績を競い合うことよりも、仏教的な素養に重点を置き、その姿勢はチベット人たちを確実に刺激していた。

メンツィカン学生 2008年

メンツィカン学生 2008年


 チベット語で仏教徒のことをナン(内の)バ(人)、仏教徒以外のヒンズー、キリスト、イスラム教徒をチ(外の)ルク(宗派)という。つまりナンバとは「身内」というシンプルな意味であり、インガは確実に身内であった。仮にインガが先輩で僕が後から入学していたら「インガはオガワと違ってとても敬虔なナンバだったぞ」と比較され、僕は思い悩んでいたに違いない。ただし、暗誦と薬草採取に象徴されるように、僕はメン(薬)パ(人)に関してはチベット人よりも原理主義的であることで、彼らから身内として認識され、そしてよき刺激を与えたのではと自負している。

5年生になり、インガは「私もオガワのようにギュ・スム(卒業暗誦試験 第51話)を達成する」と周囲に公言しながら頑張っていたという話を伝え聞いてとても嬉しくなった。さすがにギュ・スムは無理だったとしてもギュ・スムという高い目標を掲げていたおかげで、学年毎の暗誦試験の分量を負担に感じなかったのではないかと推察している。そして2018年に研修医を終えて無事にメンツィカンを卒業した。写真を見るとすっかり大人の女性になっている。

 ところが、である。インガが卒業した翌年の2019年、メンツィカンの教育部門だけが北インドのダラムサラから遥か遠く離れた南インドのバンガロールに移転し、亡命チベット人だけが学べるシステムになり、ダラムサラの旧校舎には外国人のための新しいチベット医学校が開校していた。

入学試験の代わりにチベット語学力認定試験があり、入学のハードルは外国人にとってかなり低く設定されている。5年間の学業と1年の研修医制度はチベット人と同じ。学習言語はチベット語で試験もチベット語で行われる。多分、暗誦の課題はかなり少ないであろう。開学当初はコロナ禍のために多大な混乱はあったと思われるが、現在モンゴル、台湾、ブラジル、ネパールを含め13名の学生が学んでいるようだ。ただし、外国人への門戸は開かれたとはいえ、正直なところチベット人と外国人学生との切磋琢磨がなくなったのはちょっと寂しい気がする。こうしてメンツィカンの歴史上、異文化の摩擦を乗り越えた外国人卒業生は、僕と彼女だけで幕を下ろすことになったのである。

女子学生 2004年

女子学生 2004年


もしもインガに出会わなければ、アルメニアという国名すら知らないままだったかもしれない。元気にしていますか? 旧ソ連圏ではチベット医としての活動が可能なので開業しているかもしれない。もしもアルメニアを旅する人がいたら、「チベット医のインガ」を訪ねてみてください。

<参考>
新しい外国人コースについてはこちら 
バンガロールの医学コースについてはこちら 

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