ツアー名:東ブータン農村散策9日間
期間:2012年4月28日〜5月6日
添乗者●中村昌文(東京本社)
日本を出発してから到着するまで飛行機と車を乗り継いで片道3日。いまどき世界中でも、たどり着くだけでこんなに遠い場所はあまりないでしょう。しかも、これでも「アクセスがよくなりました」って言うのが「ウリ」だというのです。日本から行くだけで1泊2日かかるブータンでも、特に遠い東ブータン。いったいそこには何が待っていたのか? どんな魅力があるのか?
昨年末に下見を敢行し、GWにも添乗と短期間に2度現地に足を運んだ中村が、その魅力をご紹介します。
インドを経由してブータン国境へ
1日目:成田・関西 デリー
2日目:デリー グワハティ 国境通過 サンドゥプジョンカ
早朝、前日の日本からの長いフライトの疲れも見せず、皆さん元気にデリーのホテルのロビーに集合。インド国内線で一路東インドのアッサム州グワハティを目指す。地図を見れば一目瞭然だが、デリーからグワハティはインドの東西をほぼ横断する2時間半もの長いフライト。天気がよければ、北にインド・ネパールのヒマラヤが広がるはずなのだが、今回は雨期の走りなので、山の景色には恵まれなかった。
意外と涼しかったデリーからアッサム州のグワハティ空港に到着すると、一気に熱気が身体を包み込む。空港付近で昼食を摂るとブータンとの国境へ向けて出発。これでインドカレーとはしばしのお別れだ。
グワハティは大河ブラマプトラ川沿いに開けた街で、空港からしばらく走るとブラマプトラ川に掛かる巨大な橋を渡る。ブラマプトラ川の源は遥か西チベットのカイラス山近くに発し、ヤルンツァンポ川として東へと流れ出す。その後、チベットのラサを流れ、東チベットのナムチャバルワ峰付近でなんと180度向きを変え、南のインドのアルナチャル・プラデッシュ州、アッサム州を経て、バングラデッシュからインド洋に注ぐ。そのあまりの蛇行ぶりに近年まで、ヤルンツァンポとブラマプトラは別の川だと考えられていたほどだ。昨年の夏に東チベットからラサまでヤルツァンポ川に沿って旅したばかりのOさんは、感慨深そうだ。
アッサム州の道路はところどころ工事中で凸凹もあったものの総じて舗装されている。アップダウンがない平坦な土地なのであまり疲れることなく順調に進む。やがて、それまで続いていたインド平原が突然終わりを告げ、目の前に屏風のような山並みが迫ってくる。ようやくブータンとの国境へ到着だ。実は、かつてはアッサム州の北部の平原地帯はブータン領だったのが、1864年にイギリスとの戦争で負けイギリスに割譲し、それがインドに引き継がれているのだ。「平地=インド」、「山間部=ブータン」という地理的な区分けがくっきりとなされているのは、そんなことも関係しているかも知れない。
(左)ブラマプトラ河に掛かる橋 (右)屏風のように立ちはだかるインド側から見たブータン
緊張感のかけらもないインド側のイミグレーションで出国のハンコをもらったら、アッサム紅茶の茶畑を抜けてブータン側のイミグレーションへ。ブータン風のガイド・ツェテンがゲートで皆さんをお出迎え。「ブータンに来たー」という感動で皆さんのテンションが一気に上がる。日本にはない地続きの国境越えは、やはり格別の味わいだ。
ごちゃごちゃしたインドの街
小ぎれいなサムドゥプジョンカ
ブータン側に入ると、急に街が「清潔」になる。ゴミゴミしていているが、やたらとエネルギッシュなインドから、小ぎれいで抑制的なブータンへ。非常にわかりやすい構図だ。亜熱帯の街らしく建物はコンクリートの打ちっぱなしが多く、ブータンらしさはあまり感じられない。ゴ、キラを身につけている人もいるが、Tシャツ、短パン姿も多い。どことなく数年前に訪れたスリランカを思い出した。しかし、翌朝早く起きて街を散歩すると、この街を清潔に保っているのは、ブータン人ではなくインド側からの毎朝やってくる出稼ぎ労働者なのだ、ということがわかる。ブータン人は決して3K労働はしないのだ。
いよいよ東ブータンへ突入
3日目:サンドゥプジョンカ タシガン ランジュン
サンドゥップジョンカのチェックポストを通過し、一気に標高を上げると、デワタンという小さな集落に到着する。ここは2006年にブータンがアッサムゲリラ掃討作戦を展開した際の司令部が置かれ先代国王とブータン軍が駐屯した場所だ。南側を振り返ると遠くまでインド平原が広がる。
11時ごろ、ナルフー村到着。沿道の小さな集落だ。ここで30分ほどトイレタイム。普通の商店のトイレを借りるが、まったく嫌な顔一つしない。ブータン人はよく「東ブータンは人が本当に親切だ」いうが本当にその通りだ。山に暮らす人々は何をするにも周りと協力し合わないと生きていけない。だから、困っている人を助けることは、廻りまわって自分を助ける。そんな考えが染み付いているのではないか。
斜面をジグザグに走る道路
道中の平均標高は1,500mから2,500mほど。東ブータンの中心地タシガンやランジュンは標高が1,000m程度なので、東ブータン全体の標高が低いと考えてしまいがちなのだが、これは街が標高の低い谷間に位置しているからで、街と街、村と村とを結ぶ車道は山の中腹をジグザグに切り開き、時に尾根や峠を越えて山から山へ、谷から谷へと続いているので、意外に標高が高く平均2,000mくらい。何度もカーブを繰り返し、あちこちで道路拡張工事をしているので、なおさらだ。およそ200kmに8時間もかかった(時速約25km)。雨期には土砂崩れが多発するというのもうなずける。
赤いシャクナゲの花
植生の基本は常緑の照葉樹林帯なのだが、標高によって微妙に変化している。標高が高い峠付近には、赤や白のシャクナゲが咲いていた。途中、遠くまで見渡せるビューポイントを選んでピクニックランチ。涼やかな風が気持ちよい。絶景の中、皆さん食欲も盛んである。
カリンの織染センター
途中、カリンの織物研修センターに到着。ここには東ブータンの各地からやってきた17歳から23歳の女性が織物、染物の実習に来ている。毎年4月から9ヶ月研修をしているそうだ。平らな土地が少なく現金収入の少ない東ブータンでは、女性が畑仕事の合間に織る布が貴重な収入源となっている。彼女たちが村へ帰ってからも、織り手として自立していけるように基礎を身につけてもらうそうだ。
夜遅くなって、ようやくランジュンに到着。日本を出発して丸3日。さすがにロングドライブで皆さん少々お疲れの様子。明日からようやく東ブータンの村を巡る。さて、どんな出会いが待っているのだろう。
東ブータンの農村を訪ねる
4日目 ランジュン サリン村 タシガン ランジュン
ランジュンの谷
朝、目を覚ますと、ロッジから昨日は暗くてよく見えなかったランジュンの谷の様子がよく見える。谷の中心に巨大なウォセルチョリンゴンパが鎮座し、周辺の山に点在する民家から朝餉の煙が上がっている。ああ、美しい農村風景だ。今日はあの農村のひとつサリン村をハイキングで訪れる。
目指すサリン村へ行くには村外れを流れるガムリ・チュの川原まで下り、橋を渡って、そこから2時間半ほど歩くはずだったのだが、前の晩、宿のご主人に話を聞くと、道が整備され対岸のかなり先まで入れることが判明。きつい登り部分を1時間以上カットすることができた。
村の入り口で前回もお会いしたおじいさんに出くわす。隣には前回お邪魔したお宅の奥さんも赤ん坊を背負って立っていた。麓の村まで子供の検診に行くのだそうだ。それぞれに前回撮った写真を渡すと、満面の笑みを返してくれた。「また会おうね!」
前回の写真を喜ぶおじいちゃん
検診へ出かけるおかあちゃん
前にお邪魔したときの写真
村の中心にあるお堂を訪ねると村人たちが灯明の掃除をしている。前回の写真を見せると、「あ、ソナムだ!」「ダワもいる」と子供たちが大騒ぎで、写真をもったままどこかに走り去る。ちゃんと本人に届けてくれたのかなあ?
堂守さんにお願いしてお堂を見学させてもらう。中にはお祭りで披露される仮面舞踏(チャム)の仮面が並んでいる。2階の壁画、天井画も田舎のお堂にしてはかなり立派だ。村の人々の自慢のお堂なのだろう。写真もOK。「お堂の維持に」とお布施を払うと、お返しとばかりに村人がザウとお茶で歓待してくれる。7月から大学に入学が決まっているという、インテリのお嬢さんが接待役として我々の世話をしてくれた。
サリン村のお堂
サリンのお堂の仮面
サリンのお堂の壁画
サリンのお堂の天井画
自宅で機織する少女
彼女にお願いして自宅と、機織の様子を見せてもらう。この村でも女の子は7-8歳には機を織り始めるそうだ。実際織っているところを見せてもらう。彼女の織った布を買いたいというと、隣にお父親がいるにも関わらず、携帯を取り出して母親に値段を聞いていた。ここ母系社会のブータンでは家長は母親なのだ。
お昼はお堂の前に敷物を強いてピクニックランチ。子供たちが照れくさそうに周りでうろうろしているのが新鮮だ。最近まで車道も繋がっていなかった、平らな土地もほとんどない田舎の小さな村サリン。そんな田舎の村でも子供たちは英語を話し、人々は少ない現金収入をつぎ込んでお堂を立派に飾っている。ブータンは「日本の4-50年前の田舎のようだ」とよく言われるが、その時代を生きていない私にはなんとも分からない。村の暮らしは決して楽ではなさそうだが、特に貧しいというわけでもない。しかし、とにかくみんな表情が明るくて、幸せそうだ。彼らのこの「笑顔の素」はなんなのだろう?
午後、ランジュンのウォセルチョリンゴンパへ。
このお寺はブータンで、いや、チベット文化圏全体でも高名なガラップ・リンポチェが座主を務めている。欧米の信者も多く、僧院経営にも成功している。本堂からは巨大な僧坊、というよりも寄宿学校のような宿舎が見下ろせる。相当の数の僧侶が修行に励んでいるのだろう。
記念撮影をしようとしていたら、ブータン人巡礼者の一団と一緒に写真を撮ることになった。ここまでくる外国人が珍しいのだろうか?
ウォーセルチョリンゴンパ
ウォセルチョリンゴンパ
の前でブータン人と
どうも雲行きが怪しくなってきたので、急いでタシガンヘ。
ゾンを見学し終わると法要の終わりを告げるラッパが鳴り響く。
その後、街でしばらく散策にするはずが、突然の雷雨。直径1cmくらいの雹も降りだし、しばしブータンには不似合いなケーキ屋の隣の喫茶店で休憩。なんと、地元の女子大生がケーキを食べながらガールズトークを繰り広げている。
バケツをひっくり返したような雨というより、タライをひっくり返したような雨。小降りになったところでランジュンへ引き返す。先ほどの豪雨が大量の土砂を伴って流れてきて道路にあふれている。雨期には早いのだが、これも地球温暖化の影響だろうか?
東ブータンに残る 照葉樹林の恵み
5日目 ランジュン ラディ チャリン ランジュン
昨夜の豪雨が残っていないか心配したが、なんとか晴れた。
今日は、ラディ村で織物、染物の実演を見学する。
東ブータンは織物、染物が盛んで有名だ。西ブータンの人が、翌年の祭りに着る晴れ着をわざわざ東ブータンに注文することもあるそうだ。村を散策している間にも、糸紡ぎや機織をしている様子をあちこちで目にした。自宅の庭で染色をする家庭も少なくない。
解説するペルデンさん
糸紡ぎをしていたおばあちゃんと息子、孫、ひ孫
工房では女主人であるペルデンさんが熱のこもった解説をしてくれた。実は彼女日本語はおろか英語もあまりできないのだが、現地語で「これをここに入れて3日置いておくでしょ、それでさらにこれを入れるとこうなるの」と身振り手振りを入れて語ると、なんとなく伝わってしまうのだ。下手な通訳が入るよりもずっとわかりやすい。
ペルデンさんの工房では糸は野生の蚕(ブラ)、染料はラックカイガラムシ、ウコン、藍、茜など天然の素材、染料にコダワリがあるのだが、最近はインドから輸入したシルクやすでに染めた糸を買ってきたり、科学染料で染めた糸で織ったりする家も少なくないそうだ。ペルデンさんの家では自宅で染めた糸を使って、娘さんが非常に細かな模様を編みこんだ布を織っている。今回参加された方は皆さん手仕事に興味の深い方が多く、その細かな技術に感嘆の声が上がる。
染物の原料
野生の絹(ブラ)
非常に手の込んだ
縫取り織り
その後、ラディ村の最奥にある尼寺へ。ウォセルチョリンゴンパの座主ガラップ・リンポチェが運営しているそうだ。山奥の田舎の村にあるにしては立派なお寺だ。ちょうど中庭のコンクリを張替え作業中で、尼さんたちが忙しそうに働いていた。大学卒で英語が得意だという尼さんが我々の接待役としてやってきて、お茶とお菓子を振舞ってくれた。お客様からいろいろと質問が飛び出す。例えば、
「どうして出家したの? DV? 人生が辛くなったの?」
「いいえ、どうやったら心の平穏が得られるか勉強したいから出家したのです」
「ブータンのお寺って社会活動もするの? お寺の収入はどうなってるの?」
「普段からお祈りをして、勉強して、自分たちのことは自分たちで面倒を見ています。だからそんなにお金もかかりません」
日本では、出家する女性は人生に絶望したか、何かから逃げ出すためにという人が多いというイメージが強いのかもしれないが、ブータンには尼さんだけでなく、僧侶にもそういう悲壮感はあまりない。積極的な信仰生活、というものが肯定されている、ということを感じられたのかもしれない。
午後からは、チャリン村を訪ねる。ここは数世代前に遊牧生活をやめ、インドのアルナチャルプラデッシュから移り住み定住した遊牧民(ブロクパ)の暮らす村だ。今ではゴ、キラを着ているが、年寄りの中には、当時の衣装をいまでも身に着けている人も少なくない。ヤクの毛のフェルトで作った房付き帽子や、ウールの上着などは、国境を越えてインドのアルナチャル、チベットのモンパ族と共通しているそうだ。細かい刺繍の模様は東南アジアのタイやミャンマーあたりとの共通性を感じさせる。
チャリンのおばあちゃん
足が悪くて歩けないので
いつもここに座っている
また会いたいなあ
ウールの帽子を被っているのは
遊牧民だったなごり
アラ・ゴンド(たまご酒)
前回訪ねたお宅を目指して村の中を歩いていると、あちらこちらで「チャン」を蒸留して「アラ」作っているのを目にする。「チャン」はヒマラヤ各地で作られている醸造酒で、穀物に麹を入れて発酵させたいわゆるドブロクである。東ブータンではトウモロコシが主な原料だ。東ブータンではアラにたまごを入れた「アラゴンド」が来客に振舞われるのだが、当然我々にも振舞われる。
もともと遊牧民だったというだけあり、冷蔵庫にはヤクのバター、チーズが保管されていた。
トウモロコシを発酵させたチャン
アラ製作中
ヤクのバター
ヤクのチーズ
酒麹
吊した酒麹
このお宅のご主人(女性)もブロクパで見た目も、服装も「普通の」ブータン人とは明らかに違い、チベット的な雰囲気を感じる。「ありがとう」もゾンカ語の「カディンチェ」ではなく、チベット語の「トゥジェチェ」をだった。
我々がお邪魔している間、あちこちから子供たちが集まってきて、遠巻きに見ている。わかりやすく興味津々だ。しかし、はにかむばかりでなかなか近づいてこない。すごく人見知りなのだ。恐らく外国人の団体が村にやってくるなど、いままでなかったんだろう。お邪魔したお宅の少女は、帰る間際になってようやく、笑顔を見せてくれた。
恥かしがりやだけど人懐っこい
その後、我々は再び3日間掛けて帰国の途についた。
穏やかで、静かな村の生活。かつての日本の姿を思い起こしたり、今日本では失われた慎ましやかな幸せを見たり、感じ方はそれぞれだったと思う。
しかし、帰った後でも「あの人達にまた会いたいな」と思わせてくれる、そんな旅になったことだろう。だって、私自身もう3回目に行きたくなってるのだから…。