一昨年、「森のくすり塾」を開塾するにあたって、看板を木彫りで製作しようと思いたち、押し入れの奥に眠っていた彫刻刀セットを取り出した。手に取るのは久しぶりだ。結び目を解き鹿皮のケースを広げると、18年前に購入した彫刻刀は18年ぶりに日の光を浴びた。「どうしてこんな高価な彫刻刀を持っているの!」と驚く妻に、「いや、まあ……」と苦笑いで返しつつ、18年前の若き自分を思い返した。
25歳の僕は長野県信濃町にある「えんめい茶」に研究員として勤めていた(第45話)。標高750m、熊避けの電線に囲まれたなかに工場はあり、冷涼な気候は薬草の保存状態に最適の環境である。薬草の選別、粉砕、焙煎、ブレンドなど製造の現場で叩きこまれた。その会社の脇には「農民工芸舎」と木彫りの看板が掲げられ、当時70歳のOさんが働いていた。会社のオフィスに飾られる木彫りの芸術作品だけでなく、薬草茶の商品を並べる棚などもすべてOさんの手作りだった。
Oさんは第二次大戦後、シベリア抑留を経て、命からがら帰国し黒姫に入植。そして、創業者である故・狩野誠と二人三脚で会社を発展させた。定年を迎えたあとは、農民工芸舎という美術部門を立ち上げ、引き続き会社に貢献されていた。1995年の入社当時、僕は何かと理由を見つけては頻繁にOさんの仕事場へ顔を出して、シベリア抑留の話や会社の生い立ちなどの昔話に耳を傾けていたものだった。そして、入社して1年後、僕はOさんが愛用している彫刻刀と同じものを購入することにしたが、三日坊主どころか、一度も彫刻刀は使われることはなかった。
1995年当時、えんめい茶には甘茶畑があり、秋になるとOさんが甘茶葉の収穫をはじめる。僕は社長にお願いしてOさんに弟子入りさせてもらい、甘茶の調整法を教えてもらう機会を得た。まずはアジサイのような葉っぱを収穫し、しごいて葉を落とし、温風機で半乾燥し、製茶機で揉む。すると真っ黒く発酵し、驚くほどの甘味が出てくる。この甘茶をほんの少し、薬草茶に加えることで絶妙なコクがでて美味しくなるのである。その昔、砂糖が貴重だった時代には、甘茶は貴重な甘味源だったに違いない。だからこそ4月8日の花まつり(お釈迦様の生誕祭)にはお釈迦様に甘露として捧げるとともに、参拝者に振る舞われた。こうして僕は薬草の手仕事に強い憧れを抱き、そして、その憧れはチベット医学の学びへとつながっていくことになる。
事実、メンツィカンでチベット医学を学んでいたとき、よくOさんを思いだす機会があった。えんめい茶と同じようにメンツィカンには木工所があり、チベット薬の棚はすべて自前で製作され、チベット医学絵解き図や植物絵画を描く美術工房もある。僕はチベットの仏画師たちにOさんの面影を重ねていたものだった。また、メンツィカンを支え続けた製薬の名人・シャンバ(第135話)にOさんの姿を重ねることもあった。医薬学と芸術の融合。いや、そもそもチベット医学の「医学」のなかには薬学も芸術も、そして仏教哲学もすべて包括されている。患者の診断、治療のみを医学とすることこそが「現代医学」の定義とはいえないだろうか。
話を2014年の別所温泉に戻そう。製作をはじめてから一週間後、「森のくすり塾」の看板が完成した。ただし、彫ったのは木彫りの心得がある妻である。よく切れて、使い心地が素晴らしいと妻は語る。それはそうだろう。なにしろ今までほとんど使っていなかったのだから。そして、同じく昨年、僕は知人から甘茶の生葉を手に入れる機会を得ると、「昔取った杵柄」とばかりにOさんの教えを思い出しながら調整し、甘茶を仕上げることができた。お湯を注いで飲むと独特の甘みが口のなかに広がった。先人が守ってきた薬草の知恵が(それは、他の伝統工芸に比べればたいした技術ではないかもしれないが)、僕のなかに確かに受けつがれていたことに安堵にも似た喜びを感じることができた。今度は「森のくすり塾」での活動を通して、この「薬草の知恵」のバトンを次世代へと渡していかねばなるまい。
ただ、残念ながらOさんは数年前にすでに亡くなられ、この看板も自作の甘茶もOさんに披露する機会はなかった。Oさん、ありがとうございました。
注 甘茶
アジサイの仲間。標高500m以上の山間地に生える。アマチャズル(ウリ科)とよく混同されるが、まったく異なる植物である。甘茶はもともと仁丹の原料でもあったことから信州の各地で栽培されていた。甘茶を多量に飲むと(コーヒーも多量に飲むとカフェインの副作用があるように)吐き気を催すなどの副作用があることから注意が必要である。花まつりのとき、子どもたちが無邪気に飲み過ぎて嘔吐する事故を耳にする。
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