第330話 ロト ~カレンダー~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

メンツィカン在学中から「俺はもともと暦法学に興味などなかった。卒業したらコンピュータ関係の仕事に就きたいんだ」と言っていた通り、卒業課題である2024年の暦法カレンダーを提出すると、5年間の学業には一切執着せず、さっさと携帯電話の会社に就職してしまった。(2007年)6月のある夜、部屋の電気を消した後の会話が思い出される。
「ノルプ、2024年はどんな年だ。まだ地球は存続しているのか」
「ああ、当り前さ。ちょっと雨は多いけどいい年だぞ」

引用:『僕は日本でたったひとりのチベット医になった』(小川康 径書房 2011年)

2024年なんてはるか遠い未来のことだと、こんな会話を交わした2007年当時は実感がまったくなかったけれど、気がつけば17年後のそのときを迎えてしまっている。著書のなかでは念のために仮名でノルプとしたが本名はダワ・ツェリン、メンツィカン(チベット医学暦法大学。北インドのダラムサラ)学内ではダツェと呼ばれていた。

チベット国歌を歌うダツェと筆者

チベット国歌を歌うダツェと筆者

暦法学コースの彼は今風のファッションに身を包み、勉強するのは試験直前だけ。歌や踊り、パーティーになると一気に主役に躍り出る。それでも定期試験ではつねに中位の成績を収めるあたりは、よほど要領がいいのだろう。ちなみにメンツィカンの暦法学師の一番大切な仕事は、毎年、月齢に沿ったカレンダーを作成し、仏教行事の日取りを定めることにある。他にも男女の相性を占ったり、天気予報をするなど人々の生活と深く関わっている。

引用:同上

卒業課題としてチベットの暦書カレンダーを作成したのは2007年。17年も前のことゆえに、巻末に記されるダツェのことを覚えている人は、現在のメンツィカン内ではほとんどいないであろう。なにしろ彼はメンツィカン学生らしからぬ型破りな男だった。ちなみにチベット語でカレンダーをロ(年)・ト(記)という。

ロトを作成するダツェ

ロトを作成するダツェ

夜、0時を過ぎて僕が寝る頃になるとノルプ(=ダツェ)が携帯電話で彼女と話し始める。何度「電話をするなら外に行け!」と注意したかわからない。そのうえ、とにかく整理整頓ができない男で、わずか四畳しかない狭い部屋は彼の脱ぎ捨てた服で埋め尽くされていく。彼の領地が拡大してくるのを恐れて、僕は何度も服を蹴飛ばして陣地の回復に努めなければならなかった。真夜中に泥酔して帰ってきたこともある。そして何より困ったことに、僕の湯沸かし器を勝手に使っては壊すのである。

引用:同上

1年から4年までは4人部屋で最終学年だけは2人部屋になるのだが、仏様のいたずらなのかクジ引きで僕とのペアになってしまった。相棒が僕だとチベット人同士ならではの融通が利かないために、彼は露骨に嫌そうな態度を示したが、そりゃ僕だって嫌だよ。なにしろかつて彼から「いじめ」にも近い嫌味をさんざんいわれたトラウマがあるのだから。それでもわずか3畳の狭い部屋で彼との共同生活では、本気の喧嘩を通してようやく仲良くなれたような気がする。

僕に「お人よしのいい子ちゃん」を脱却する機会を与えてくれた彼は、僕が最後の暗誦試験ギュ・スム(第23話)に臨む3日前に「オガワ、俺はいなくなるから部屋を遠慮なく使え。ギュ・スム、頑張れよ」と言い残して寮を去って行った。もしかしたら、僕に迷惑をかけないための彼流の心配りであり、最後の償いだったのかもしれない。彼に感謝する気持ちになれたということは、ヒマラヤ薬草実習や暗誦試験と並び、チベット医学の修行の中で最も厳しい通過儀礼をクリアしたことを意味していた。

引用:同上

学園祭でゲームを担当するダツェ

学園祭でゲームを担当するダツェ

彼とは卒業後の2012年、妻との新婚旅行をかねてインドを旅行した際に(第147話)4年ぶりに再会した。インド首都デリーのチベット人キャンプで携帯電話ショップを経営していた。「オガワ、久しぶりだな!」とひとしきり思い出話に話が咲いた後、ちょっと僕が外出した隙に、妻に向かって英語で「オガワと一緒に暮らすのは大変だろう」と苦笑いとともに小声で話しかけたという。別れた後で妻から報告を受けた僕は「どの口が言う!」と彼に対する当時の不満がフツフツと蘇ってきたのを覚えている。

僕が54歳になるこの年、メンツィカンから出版されるカレンダーの巻末にはお前の名前が記されているだろうよ。そのときどこで何している? 僕はきっとカレンダーを眺めながら、お前とルームメイトだったことを自慢するだろうな。でも安心しろよ。そのときには湯沸かし器を壊したことは忘れているからさ。

引用:同上

著書のなかではダツェとの思い出を美しく締めくくったけれど、もしもインドのどこかで彼に会うことがあったら、苦笑とともに小声で「オガワは今も湯沸かし器の恨みを忘れていない」と伝えてほしい。
2024年、ダツェの暦書によるとチベット地方では雨が多いようです。たくさん遊びつつも要点は外さなかった彼のことだから、きっと予報は当たるでしょう。元気か? いま、どこで何している?

チベット暦書はカレンダーの役割のほかに、天文学、天気予報、吉兆占いなど多様な要素を含んでいる。詳しくは『チベットを知るための50章』(石濱裕美子 明石書店 2004年)のなかの第35章「タントラに基づく暦」(西脇正人)を参照。なおダツェが担当したチベット暦は西暦2024年2月10日(チベット正月)からはじまる。

 

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