第331話 ハバブ ~神降ろし~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

護法尊が降臨する砂曼荼羅

護法尊が降臨する砂曼荼羅


 
北インド・ダラムサラの街に早朝、「ボォー、ボォー」というギャリン(チベッタン・ホルン)の重低音が鳴り響いた。それはネチュン寺(第57話)においてクテンによる神降ろし儀式が行われる合図。護法尊ネチュンが降臨するお方をク(御身)テン(拠り所)といい、特殊な素質を見込まれた僧侶(男性)が一人選ばれ生涯にわたってその役を担い続ける。普段は物静かな僧侶だが、鎧の如き重量の装束を身にまとい儀式によってネチュンが降臨すると、その老齢(65歳くらい)には信じられぬほどの力で飛び回り、最後に重要な予言を告げる。たとえば2001年には「ダラムサラに大地震が起こる」と予言があったことから、各家庭に「地震を防ぐ経文」が配布され、チベット人は毎朝、経文を唱え続けた。僕も意識して真言を唱えていた。そのおかげか、震度3ほどの地震が起きただけで2001年は無事に過ぎ去った。また1959年のダライ・ラマ脱出に際してはクテンのお告げが決めてになったという(第284話)

ネチュン寺

ネチュン寺

 一連の儀式を終えるとクテンは椅子に座って少しずつ息を整えていく。その際にネチュンの化身であるクテンに触れることができたなら御加持を得られることから、チベット人はカタ(祝福の白い布)を持参して長い行列をつくる。僕も息が荒いままのクテンに拝謁し、その御身体に触れさせていただいたが、当時は信仰心というよりは興味本位の動機が強かったことを正直に告白しておきたい。
神や霊が人間に降臨してお告げをする文化は世界中に存在し、それはシャマンという共通語で括られる。日本では青森県のイタコや沖縄のユタが有名である。低俗なものとしては、小さい頃に流行したコックリさんもその一つである。僕たちの幼少期、野球のボールが草むらに消えるたびに、無邪気にコックリさんを降霊させてボールの場所をお尋ねしたものだった。

ネチュン寺 祭壇

ネチュン寺 祭壇

 チベット文化圏のなかでもインド最北部の秘境ラダックにはシャマンの文化が色濃く残っていて、ラ(霊)モ(女性)・ラバ(男性)と呼ばれるが、圧倒的に女性のラモが多い(注)。さらにラダックではラモとアムチ(医師)の存在が渾然としており、ラモが興奮状態の中で脈を診察して診断を下すことがある。ヤブ医者の起源は野巫にあり、つまり巫女のような存在であったともされる。だとすればラモは失礼ながら正統な野巫医者だといえる(第56話)。そして外国人はこれこそ神秘のチベット医学だと思い込む傾向があるが、ここで一言申しておきたい。

ラサのお寺(本文と直接の関係はありません)

ラサのお寺(本文と直接の関係はありません)

 チベット医学は欧米の近代医学から視れば、前近代的な存在として認識されるであろう。しかしチベット文化圏内部において、メンツィカンはより近代的な組織として期待されているがゆえに(第195話)ラモや密教行者の占い・モ(第84話)とは一線を画すことで(つまりそれらを相対的に前近代的な存在として位置づけることで)社会全体のなかで役割分担をしている。メンツィカンには四部医典を5年間に渡って学ぶ厳しい学問体系があり、薬草を採取する実用的な能力が求められ、学校という厳しい規則の中で生活は律せられている。つまり、「論理的」であり「実用的」であり「組織的」な存在であり、やや意地悪な言い方をすれば「権威的」である。いっぽうラモ・ラバは識字能力を問われないし、文字を読めないラモは多く、彼女らを養成する組織はない。「直感的」であり、よくいえば「素朴」な存在である。だからといって、両者の存在が対立しているわけではけっしてない。

こちらも穴場ネチュン・ゴンパ

ラサにあるオリジナルのネチュン・ゴンパ

忘れられない光景がある。あれはメンツィカンにおいて薬師如来の灌頂の儀式が2日間に渡って開催されたときのこと。灌頂とは平たく言えば仏教における必須の入学式であり入門式にあたる。当時僕は2年生。下の学年1年生の入学を待って合同で2003年4月に開催されたという経緯がある。その1日目の法要中のこと。突如ラダック出身の尼僧が立ち上がると「ケエー! ケエー!」と大声で叫び、鳥のように羽ばたきながら飛び跳ねはじめたのである。すぐ近くに座っていた僕はあっけにとられてしまったが、想定の範囲内といわんばかりにチベット人たちはまったく慌てる様子はない。彼女に神・霊(ハ)が降臨(バブ)したとして理解するとともに、「ハバブが生じるほどに厳粛な灌頂法要だ」として意識がさらに高揚したようだ。法要は中断することなく進行し、職員3人が興奮する尼僧を優しく抱きかかえて外に連れ出した。尼僧は一連の出来事をまったく覚えていないという。そして2日目、何ごともなかったかのように儀礼に復帰していた。


チベットの青海省ではシャマンは圧倒的に男性が多い。

参考
人類学者の山田孝子は『ラダック』(京都大学学術出版会 2009)のなかで「{ラダック社会の}強い社会的葛藤、緊張の中で、病を発症し、シャマンへの道を踏み出していた」と、女性に対して保守的なラダックの特殊事情がラモの憑依体質を生み出しているのではと指摘している。

クテンについてはこちらに詳しく記されています。
『チベットを知るための50章』(明石出版)の第36章「諸天がはたらきかける未来」(野村正次郎)

 

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