第289話 コルワ ~聴聞者~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

ディケ(この言葉を)、ダクギ(我が)、トゥーパ(聴いた 注1)、トゥ・チク(時)、(場)。」

薬王城タナトゥク 薬王城タナトゥク

八世紀に起源を有する『四部医典』はこの一節「我がこの言葉を聴いた時、場とは」で幕を開ける。法が成立するための五つの円満(完璧な条件)をあらわしている(注2)。156章からなる四部医典は冒頭の第一章において説者聴聞者の四つの円満が解説され、以降の155章で教えが説かれることで五つ目のの円満が成立し、結果、この教典の正当性が証明されることとなる。以下に第一章から抜粋しながら解説する。

1. ナ:場の円満
聖仙が暮らす薬王城タナトゥクは五種類の宝石で建造されている無量宮で、多様な薬の宝石によって装飾されていた(ここまで内なる場の円満)。城の南側には太陽の力を具えた賓陀山があり、北側には月の力を具えた雪山がある。東方には香気山があり訶梨勒の森がある。西方にはマラヤ山があり良質の六果が育っていた(外なる場の円満)。

2. ダク:説者の円満
無量宮の中央には瑠璃の絨毯が敷かれており、その絨毯には教説者であり、世尊であり医師である薬師瑠璃光の王と呼ばれるお方が座しておられた。

3. トゥーパ:聴聞者(チベット語でコルワ)の円満
説者に仕える聴聞者とは、天界衆と仙人と外教徒と仏教徒であり、これら四つの聴聞者が四方を囲んでいた。

4. トゥ:時の円満
一同に介し、心の準備が整ったその時、教説者が仰せられた単語の一つ一つを、四つそれぞれの侍従たちは、それぞれの言葉によって教説者の宗派を完全に了解したのである。

(以上 根本部第一章)

 アムチ(チベット医)の誕生の通過儀礼である三部暗誦試験「ギュ・スム」(第51話)では五つの円満が忠実に再現される。まず会場となるお堂に祭壇を設け四部医典の編纂者であるユトクと御法神を祀りタナトゥクを再現する、つまりを円満にする。教師、学生、職員ら約80名が四方を取り囲む、つまり聴聞者が円満となる。儀式の前に『般若心経』などお経を全員で読経することで心を整える、つまりを円満にする。暗誦者が中央に座る、つまり説者が円満となる。そして四部医典の三部が暗誦される、つまりが円満となる。これでチベット医学の教えは成立し新たなアムチが誕生することとなる。

ギュ・スム(2006年)

ギュ・スム(2006年)

約4時間、正面に座る先生方は暗誦の内容に神経を研ぎ澄ましているが、そのほかの聴聞者たちはそれほどには内容に気を配らないし、一般のチベット人ならばまったく理解できない。聴聞者が注目するのは古来より受け継がれてきた智慧「ギュ」に対して暗誦者がいかに向き合い、いかに受けついでいくのかという身体性である。なにしろ厳しい環境ゆえに一切の誤魔化しはできず、理解が浅い箇所は自信のない暗誦になってしまう。2007年11月に僕がギュ・スムに挑戦したとき、同級生と後輩たちにおごそかな場を準備してもらい、多くの聴聞者に囲まれていたからこそ最高の緊張感が生まれ、最後までなんとか暗誦することができたと、終わってからはじめて感謝の念が込み上げてきたものだった。つまりチベットの医学が成立するためには場の雰囲気と聴聞者の存在にも大きく依存していることがわかる。したがって僕はチベット社会では確かにアムチとして認められたが、暗誦の聴聞者が存在しない日本ではアムチの存在が成立しないとはいえないか。そんなもやもやした思いを帰国後ずっと抱えていた。

息絶え絶えにギュ・スム暗誦中の筆者。

息絶え絶えにギュ・スム暗誦中の筆者。

 待てよ……ならば暗誦儀式を日本で開催すればいいじゃないかと脳裏に閃いたのは昨3月13日夜11時ころのこと。ただしいきなりギュ・スムは僕にとっても聴聞者にとってもハードルが高いので、まずは二部(根本、釈義部)暗誦ギュを行うことにした。ギュはラダックなどチベット文化圏の辺境地域における医師の通過儀礼にあたり(第181話)、ギュ・スムの半分とはいえ約四万文字、早口言葉のスピードで100~120分かかる。暗誦する説者は小川康。場所は上田市内の寺院の本堂。日時は11月23日の13時30分から。本堂内に祭壇を設け、暗誦に先だち般若心経など仏典の読経からはじめることで「」の条件を円満させる。聴聞者はコロナの影響で30人に限定させていただく。

ギュが成立するためには僕の努力はもちろん、場を提供し準備していただく関係者の方々の御尽力と、暗誦を見守る日本の方々の優しくも厳しい聴聞が必要となる。そして暗誦を修了し五つの円満が成立したならば、そのときチベット文化圏以外の外国、つまり日本においてはじめてアムチが誕生することとなる。そんなことをまるで人ごとのようにワクワクしながら、日々暗誦に励んでいるところである。 (10月30日記す)

注1
原文には「シェーパ:話した」とあるが、わかりやすく解説するために、トゥーパ(聴いた)に本稿では置き換えた。本質的に意味は同じである。日本の仏典では如是我聞(にょぜがもん)と訳されている。

注2
これは、報身の仏はつねに場所、時、説者、聴聞者が完璧な状況下で完璧な教えを説く、という「報身の仏の五つの完璧な条件」という仏教思想に則ったもので、著者が『四部医典』を仏説として提示しようとしていることを示している。
参考『チベットを知るための50章』(石濱裕美子 明石書店 2004)

【外部イベント】暗誦 ~チベット医学『四部医典』~
日時:11月23日(月・祝)13時開場/13時30分開演
会場:宗吽寺(上田市中央2丁目14-6)
参加費:2,000円
定員:30名 ※犀の角(長野県上田市)でのパブリックビューイングを予定しています。

詳細は以下をご覧ください。
上田街中演劇祭2020

コメント一覧

主催者から参加許可の連絡がやっときて、ほっとしました。ラダックやムスタンには行ったものの、ダラムサラでの四部医典の暗誦を聴聞する機会がくるとはまったく思ってもいませんでした。なので、上田でのこの機会は逃したくなかったです。当日はほんとうに楽しみです。四部医典について予習をして臨みます。

H.Nakamaura2020.11.18 11:10 am

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