サプタ ~地図~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」第311話

もうひとつの日本地図 もうひとつの日本地図

佐渡の自然学園(第78話)を辞めた後、居場所を失った24歳の僕はしばらく都内に住む岩(がん)さんの6畳一間のアパートに居候していた。所持金が少なく、かなりすさんでいた。そんな僕にいよいよ愛想を尽かしたのだろう、「そろそろ出てってくれ」という彼の遠まわしのサインを受け取った僕は部屋を出て、こんどはポエムさんの家に転がり込んだ。彼のあだ名は趣味で詩を書いていることに由来する。居候二日目、居候の長期化を心配したのだろうか、彼は「これ、あげるよ」と僕に一冊の本『もうひとつの日本地図1992~1993』(野草社 1992年)を手渡した。まるで電車の時刻表のように厚いその本の表紙を見た瞬間、運命的なものを感じとったというのはけっして誇張ではない。さっそく本のページをめくり、序文「いのちのネットワーク」を読んだ。

「自然と人間とがますます破壊されつつあるいま、暮らしを作り変え、新しい社会をとねがい、さまざまな活動をしている人々のネットワークが視えてくるように……」

運命のページ 運命のページ

この本には無農薬栽培や反原発に取り組む団体など、総計220もの団体が自己紹介の形で掲載されている。そのなかに「黒姫和漢薬研究所、えんめい茶(第189話)」を見つけ、すぐさま電話をかけた。それは1994年5月のこと。
こうして僕の人生の転機を演出するとともにバイブルとなった『もうひとつの日本地図』。ページをめくるごとに見知らぬ世界が広がり、インド、ダラムサラに渡る1999年までのあいだに自然食レストランなど、それこそ「地図」を頼りにするように各地を訪問した。たとえば秋田県の「山の宿ゆきの小舎」で一泊し、かなり背伸びをした話題で盛り上がったのを覚えている。あれはバブルの後の1990年代。インターネットで手軽に大量の情報が得られる直前のアナログな時代だった。社会全体に自然回帰への流れが生まれ、その空気が僕をチベット医学へと導いていくこととなる。

ヒマラヤ薬草実習 ヒマラヤ薬草採取

チベット語で地図をサプタという。しかし、その理由はわからないがチベットでは地図が発達しなかった。1912年ラサに到達した矢島保治郎(第15話)はラサ市街の地図を作製したところ、ダライラマ13世がことのほか大喜びされて、とうとう地図は戻ってこなかったと述べている。そういえば薬草採取でヒマラヤの山々を駆けめぐっていたときのことが思い出される。当初僕は「なぜ周辺の地図を作製して配布しないのだろう」と日本人的な不満を抱いていた。事実、僕は地図がなければ自分の位置を把握できず、結果、何度も山の中で迷っている。いっぽう同級生たちは身体感覚だけを頼りにしつつ道に迷うことはない。特に半農半牧出身のジグメは頼もしかった。なるほど、見方を変えれば地図を必要としないほどに位置認識能力に優れている民族だともいえる。

そうして地図を必要としないチベット社会での生活を経たからなのか、2009年に帰国後はこの本の存在をすっかり忘れてしまっていた。そんなとき「ゆきの小舎」から手紙が届いた。なんでも宿泊客が「チベットで医学を学んだ小川さん」という僕の話題をしたところ、もしかしてあのときの青年ではと思い当たったというから、その記憶力に驚いてしまう。そして2016年御夫婦で森のくすり塾を訪問していただき20年ぶりの再会を果たし、これを機に実家の段ボールの中に眠っていた地図が日の目をみることになった。

改めて読み返してみると、あれっ、と気がついた。自然酵母パンの「ルヴァン」が載っているではないか。上田市内のお店でよくパンを買うとともに、店主の甲田さんとは仲良くさせていただいている。だからこそ、いまに続いている継続性に畏怖の念が湧きおこるとともに、ルヴァンのパンを食べるたびにあのときの自分を思い起こしノスタルジックな気分にさせてくれる。

上田のルヴァン 上田のルヴァン

さらに、実家の近所のとうふや孫兵衛が掲載されていることにやっと気がついた。というか、近所すぎるゆえに魅力を感じなかったのだろう。僕は20歳まで肉、魚、牛乳を受け付けなかったために、近所の豆腐だけが唯一のタンパク源だったのだが、それがこだわりの豆腐だったことを知って嬉しくなった。
さらに、さらに本の奥付きを読んで驚いた。本の装幀は中山さんではないか。中山さんとは2009年の帰国後に知り合い何度かお酒を飲んだ仲である。こうして未来で出会う人たちが、あのときの僕を導いてくれていたのだと思うと、不思議な予言書のようにさえ思えてきた。もちろんというべきか、えんめい茶さんとはいまも仲良くお付き合いさせていただいている。

岩さんとは2011年にあれ以来の再会をしたが、追い出すような態度をとった記憶はまったくないと酒を飲みながら笑ってくれた。ポエムさんとは2017年にあれ以来23年ぶりの再会を果たした。家に泊りに来たことは覚えていても、僕にこの地図を渡したことをまったく覚えていないと、やはり酒を飲みながら思い出話に花が咲いた。

<参考>
えんめい茶(「縁ショップ5」)
プラチナゲストハウス ゆきの小舎(秋田県八幡平)
ルヴァン(天然酵母パン 長野県上田市)
とうふや孫兵衛 (富山県高岡市)

森のくすり塾 店内

森のくすり塾 店内

コメントを残す

※メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA