10年に及ぶ学びを終え、いよいよ明日、北インド・ダラムサラを離れて日本へ帰る2009年4月10日、僕はメンツィカン(チベット医学暦法大学)職員室にお別れのあいさつに訪れた。すると別れ際、チュペル校長が真剣な顔で「オガワ、日本の空港には首相をはじめとして、多くの人たちが出迎えに来てくれるのか」と尋ねたのである。思わず「先生、なに冗談を言っているんですか。誰も出迎えになんてきませんよ」と笑いながら答えたけれど、普段、冗談をまったくいわない生真面目な先生だけに、その言葉は余計に心に引っかかった。先生は「そうか、元気でな」とつぶやくと寂しそうな顔のままで僕を見送ってくれ、けっして晴れやかな旅立ちとはならなかった。
もちろんというべきか、4月12日早朝、成田空港には誰も出迎えに来ているはずはない。もともとどこの組織にも所属していない僕は日本社会での居場所はどこにもなく、苦し紛れに知人を頼ってようやく長野県小諸市の空き家に転がり込み、苦し紛れに富山の配置薬業をはじめた(第63話「ケンパ」開店、小川アムチ薬房)。つまりチュペル先生の落胆は、外国人としてはじめてアムチが誕生したというのに、その日本社会はいまだチベット医学に興味関心が薄いことへの失望感だったといまにしてようやく理解できている。
1959年以前、メンツィカンを卒業すると馬を伴って故郷に凱旋する風習があった。地域から医学生を送りだし、医学生は必死に学び、そしてアムチ(チベット語で医師)を盛大に迎えいれることで地域の医学が発展する。馬はその象徴だった。現在ではさすがに馬での凱旋帰郷はないけれど、医学生たちはそれぞれに地域から期待され、恩返しすべき故郷がある。チベット語で恩返しを「ディン(恩)レン(受)ジェルワ(拝謁)」という。
1980年以降、メンツィカンはスピティ、シッキム、ムスタンなどチベット文化圏の辺境地域の住民たちから要望があれば、入学試験を免除して柔軟に医学生を受け入れていた。たとえば後輩の尼僧チュゾムはクヌ地方(インド北部。ラダックの南西部に位置する)の尼僧院から地域の期待を背負って入学してきた。とても明るい性格でみんなから愛される彼女に、同級生たちが代わる代わる家庭教師を務めることで、なんとか卒業することができた。
親友のジグメは入学時、「卒業したら南インドのデプン寺に戻ってアムチとして貢献するんだ」と意気込んでいた。そのときまでデプン寺では彼の蔵書を預かってくれているという。結局、寺にはアムチとして戻らなかったけれど、ダライ・ラマ法王侍医補佐になったことで(第255話ドジェ・プンドク~同級生~)、それ以上の貢献をチベット社会にもたらしている。後輩の韓国人ジヨンの両親は敬虔なチベット仏教徒であることから、三人姉妹の長女次女にチベット仏教を学ばせて通訳として育て、三女の彼女をメンツィカンに入学させている。つまり両親からの強い期待を背負っていた。いっぽう僕には卒業を待ってくれている人や組織、地域は誰もいなかった。両親の本心は「仕方がない。好きなことをやらせてあげよう」であり、唯一ともいえる理解者は難波恒雄先生(第116話セキサンハルタ~ウルムチの八十袋屋~)だったが、それだけに2004年7月に逝去されたときの喪失感は大きかった。
恩返し先がないことは仕方がないとして、それ以上に、恩返し先がないにもかかわらず、必死に学んでいるオガワがチベット人たちには理解できなかったようだ。それは僕だけに限ったことではなく、現地でチベット仏教(密教)を学ぶ日本人のほとんどは故郷とのしがらみを絶ち個人として学んでいる場合が多く、そこはチベット社会との大きな違いだった。たとえばチベット人僧侶が密教まで修める場合、周囲で支えてくれる人たちがいる(第317話ツァム ~お籠り修行~)。修行に送り出してくれるコミュニティーが先にあることが密教の修行の条件であるともいえる。
そして2009年に卒業後、メンツィカンの学びを振り返っているうちに時間差でチベット的な思考が芽生えてきた。つまりチベット医学が必要とされる社会を育てねばと思い立ったのである。そこで2013年に早稲田大学大学院に入学。チベットでの学びを日本の薬教育や医学教育に活かすと明言することで、過去の学びの意味合いが少しずつ変わってきた(第129話~薬育の風~)。さらに2016年に森のくすり塾を建設し、返礼すべき社会をいま築いているという充実感がある。
「よくぞ、メンツィカンで学んできてくれた」と後出しではあるけれど、馬付きで日本社会から大歓迎されるその日が来るまで、チュペル先生、どうかお元気でいてください。きっと日本の首相も駆けつけてくれます。
参考
ちなみに「恩を仇で返す」はチャン(酒)レン(受)チュ(水)ジェル(拝謁)という。
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