第185回 ランワン ~続・秘伝の薬~

tibet_ogawa185_1キハダ軟膏

信州・佐久市に住む知人(62歳)が、この地方に古くから伝わる家伝薬の思い出を語ってくれた。なんでも、小さい頃、喉が痛かったり咳が止まらないときは、佐久の岩村田の「ある家」にいくと、赤い塗り薬を足の裏に塗ってくれたという。「小川さん、信じられないかもしれないけど、ほんとに喉が治ってしまうんだよ。この地域の人たちはみんなお世話になっていて、お代は、たぶん払っていなかったか、なにかでお礼をしていたような気がする」。赤い薬で、咳に効くとされる可能性があるものといえば、たぶん……紫根(第119話)で、おそらくその家は代々、中国からの貴重な生薬を入手するルートをもっていたのではないだろうかと僕は推察した。「でも、いまはもう、あの薬は手に入らないし、どこの家だったかも覚えていないよ」

地元上田市のシニア大学に講師として呼ばれたとき、壇上から「みなさんの思い出の薬を教えてください」とお願いすると、地元の高齢者が集まった会場からは次々と声があがった。そのなかでも一番人気は「御牧村の黒い塗り薬」だった。なんでも、やけどをしたときは、みんなAさんの家に行ったという。その家には大きな甕(かめ)があって、そのなかから柄杓で黒いドロドロの液を取り出して塗ってくれる。すると、ほとんどの傷は跡も残らずに治ったものだと、まるで、僕を説得するように熱く語ってくれた。推察するに、柿渋を発酵させて、そこにゲンノショウコなどの薬草を混ぜたのではないだろうか。この薬もいまはもう見ることはできない。

tibet_ogawa185_3戸隠神社の参道

戸隠神社でキハダを煮詰めてキハダ軟膏を作るワークショップを開催したときのこと。黄色い軟膏が完成すると千葉県からの参加者が「これだ、これだよ!」と大きな歓声をあげた。65歳くらいの方だ。「これは、小さいころ東京の日本橋の薬屋にあった黄膏(きこう)だ。あの薬の正体はこれだったんだ。懐かしいなあ」と語ると、しばし、昔の郷愁に浸っている様子が見て取れた。すると、戸隠神社の関係者の方がなにやら奥のほうでバタバタと探しものをしていたと思ったら、「あった、あった!」と小さな紙包みを僕に渡してくれた。「60年前に戸隠神社で製薬したキハダの薬です。信者の方々にお札と一緒に配っていたものが奇跡的に残っていました」。慎重に紙を開けると色あせた黄色い薬が出てきた。口にすると驚くほど苦い。成分は劣化していないことがわかる。昭和51年以前、GMP基準(第184話)が施行される以前は、こうして各神社やお寺では製薬が自由に行われ、信者の方々に配っていたことがわかる。

tibet_ogawa185_4戸隠神社に保存されていた薬

そして講座の後に戸隠神社周辺を散策すると驚くほどキハダが生えていることに気がついた。しかし、いまではキハダは雑木の一つでしかなく、薬として注目されることはない。

tibet_ogawa185_2戸隠のキハダ

言論の自由度ランキングなるものがあり、日本は66位と意外にも低いことに気がつかされた。いっぽう、もしも薬草自由度ランキングが定められるとすれば、日本は世界で150位以下なのは間違いない。もしかしたら最下位かもしれない。ちなみにチベット薬を取り巻くインドやネパール、中国の事情といえば、日本に比べればかなり緩やかである。いちおう、薬は認可制になっているが、大きな事故にならないかぎり自由な製薬が黙認され、各々の責任に任されている(第86話)。市場には日本では並ぶことのない生薬が自由に取り引きされている。そうした成熟した社会のなかにこそチベット薬は息づくことができるといえる。僕は薬草の自由な国に憧れてチベット医学を目指したというと、その動機を理解してもらえるだろうか。ちなみに「自由」はチベット語でランワンという。

同じく明治以降、日本政府によって統制された歴史をもつ塩、酒、米に関してはそれぞれ民衆レベルでの抵抗運動があったことから、統制と抵抗の緊張バランスによってそれぞれの文化が成熟し理解が深まった。そして近年になってようやく日本人は自由を大幅に獲得している(注1)。
近い将来、GMP基準が緩和されて、山で採取してきたセンブリやオウレン、キハダが普通に朝市などで売買できる時代に戻らないものだろうか。各村々に、地ビールや御当地の日本酒や天然塩があるように、かつての家伝薬が各地に復活しないだろうか。せめて、われわれ薬剤師や神社や寺院にその権限を与えてくれないだろうか(注2)。そうしたら、もう、僕はチベット医学に心を奪われることはないだろう。

注1
たとえば長野県の東御市周辺はワイン特区に指定され、比較的、ワイン醸造の資格を取得しやすくなっている。

注2
たとえば薬剤師の資格を持っていたとしても、山のキハダからキハダ軟膏を作って販売することは違法である。ゲンノショウコを採取して乾燥し販売することは薬剤師であっても違法である。

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