夏=ベストシーズンの思い込み
一般的に、チベットのオン・シーズンは夏だと言われる。チベット高原は、富士山以上の標高があるが、夏は涼しく快適に過ごせるからである。それにカイラスなど西チベットも雪に閉ざされることなく、気持ちよく安全に、巡礼・観光ができる。そういったことを反映してか、夏には世界中から多くの観光客、登山者、巡礼者がラサにやってくる。ラサのバルコル周辺では、チベット人、アメリカ人、フランス人、日本人、ドイツ人、韓国人、そして大多数の漢民族の群れが渦巻き、いろんな言語が飛び交い、都会の雑踏の中にいるような感じだ。そう、ラサは都会で、それも「観光」都市なのである。
そのラサの「観光度」、(都会の)「猥雑度」が著しく下がり、「チベット魅力度」が上昇する季節がある。秋と冬がそうだ。「冬のチベットは極寒、チベット旅行といえば、夏が一番」とよく言われるが、実はそれは思い込みである、と言いたい。
チベットらしい青い空
ラサの秋冬はなぜ魅力的か?
まず、青空である。
あの深くて広大な藍を体験できるのは、夏より秋冬なのである。チベットといえば、青空を連想される方も多いが、実はあの青空は雨季である夏より、秋冬に体験できるものなのである。日本の梅雨のように、ずっと降り続けることはないものの、曇っていることが多いのがラサの夏。ラサの青の中に吸い込まれる感覚を味わいたい方には、快晴率の高い秋冬が絶対オススメである。
気になる寒さであるが、冬の最低温度はマイナス10℃前後といったところであろうか。最高気温は10℃弱ぐらい。寒暖の差があるのは気をつけないといけないが、実はラサの冬は一般に思われているほど決して寒くはない。その秘密は湿度と紫外線だ。日本は湿度が異常に高いために、冬の体感温度は非常に低くなる。それにひきかえ、海から何千キロも離れ、平均標高四千メートルのチベット高原は、日本の感覚からすると、毎日「異常乾燥注意報」が出ている感じなのである。非常に乾燥しているため、温度計の気温が下がっても、体ではそれほどには感じない。朝晩は冷え込むものの、昼間はとても快適だ。僕は冬の北京に住んだことがあるが、北京のほうが格段に極寒である。(もしウソだと思われる方がいるなら、冬の中国の天気予報見て比べてみてください。)
冬のチベットの「特典」
そして、秋冬のラサにはもうひとつ「特典」がある。
観光客が少ないため、ポタラ宮殿が「時間無制限」で堪能できる(可能性が非常に高い)ことである。激増する「観光客対策」のため、ポタラ宮殿を参観・巡礼する時間が、夏の間、「1時間だけ」という、なんとも理不尽な規則があるのである。高所のため、ただでさえ体に負担がかかっているのに、階段の上り下りの激しいポタラ宮殿の内部を、半ば早歩きで見なければならない。特に、ポタラを楽しみにラサに来る方にとってみれば、非常に残念なことである。風のチベット・ツアーでは、ひとグループの最大人数が抑えられているので、「被害」は最小限度に食い止めているものの、他社では20人、30人のグループはざらで、このような大人数でポタラを1時間で見るのは、ほぼ「アスレチック」状態だと言える。冬は、観光客が減るので、規制がなくなり、ポタラを堪能するには狙い目の季節といえる。(2019年9月現在、冬でも1時間ルールが適用されるが、適用は夏に比べ緩めです。)
ポタラだけではない。観光客が少ないことがいかに快適か。
ジョカン寺もセラ寺も、観光客のいない閑散とした中、巡礼ができる。そしてなによりも、あの甲高い声でマシンガンのような説明を加える、某国のガイドがいなくなるので、お寺も静かな雰囲気の中廻ることができる。ただお寺を「物理的に」行くだけなら、夏でも冬でも変わらないと思うが、やはり中身をじっくり堪能したいのなら、冬のほうが、時間的にも空間的にも余裕がある。
「巡礼空間」への変貌
そして最後に、秋冬チベットの最大の魅力とはいえば、「ラサが聖地になる」ということに尽きる。それはどういうことか。ラサが聖地であるのは、一年を通して変わらないものの、秋冬には非常に多くの巡礼者がラサを訪れるのである。チベット自治区の中に住んでいる農牧民はもちろん、青海省や四川省など、中国の他のチベット地域からも、秋冬の農閑期を利用して、聖地ラサを目指してやってくる。最近開通した青蔵鉄道を利用してやってくるチベタンもいる中で、数ヶ月かけて五体投地ではるばるラサを目指す農牧民たちも多い。ラサ、特にバルコル周辺は巡礼ムード一色となり、それに呼応するように、チベット巡礼グッズ(マニ車やお守りなど)やチベット正月の飾り物や祈りモノを売る商店が増えていく。
ラサの中心・ジョカン寺の前には、地方独特の民族衣装で着飾ったチベット人たちが、早朝から夜暗くなるまで五体投地をして祈りを捧げる。その数は一日通して変わることなく、少なくとも数百人はいよう。もちろん、ジョカン寺の周囲をめぐるバルコル街も、圧倒的な数の巡礼者で埋め尽くされる。バルコルやジョカンだけでなく、ポタラやセラ寺、そして他の多くの僧院やお寺も多くの巡礼者にとって大切な祈りの場、巡礼の場となる。
夏に観光都市の様相を呈していたラサが、真の姿を垣間見せる時だ。
観光空間から巡礼の空間へ、ラサは変貌する。
冬を彩るディープな祭
その冬の巡礼空間を彩るのが、幻想的なラサのバター灯明祭(ゲルク派の祖ツォンカパの命日を記念する祭)であり、シャーマニックなお顔で、巡礼者に加持を与えてくれる、チベットの女神ペーラモを祀る祭であり、そして最後は、家族で過ごすロ・サール(チベット正月)へと、ラサの冬は一気に加速する。
刺激的で、充溢した巡礼のシーズンは、あっという間に過ぎ去る。広い意味で、巡礼もある種のお祭のようなものであると考えられるが、チベット語でお祭のことを「ドゥチェン」(=大きな時間)と言うのは、非常に興味深い。
ディープなラサを体験したいのなら、絶対に冬である。
チベット初めての人も、夏しか来たことがない人も、冬のチベットはいろんな顔を見せてくれるに違いない。
今春、チベット地域では様々な出来事があったが、それゆえに今冬の巡礼シーズンをより特別な気持ちで迎えるチベット人は多いだろう。いかに現世の様態が変わろうとも、巡礼の熱気、祈りや信仰の「厚さ」は、変わらない。
冬のラサは、いろんな意味でアツイのである。
※「風通信」35号(2008年10月発行)より転載
執筆:村上大輔 [2019年9月再編集]
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